沼津市の南部、伊豆半島の付け根に位置する西浦地区。西浦河内は、海岸線から少し山間に入った場所にあり、谷を流れる河内川の左岸に沿って形成された細長い集落で、古くは下流の木負と同村だったといわれています。
集落は河内川の氾濫から家を守るため、山の斜面に住宅が集中しています。また集落の背後にも山の斜面が続き、その一面にみかん畑があります。
江戸時代、河内には「御林」といわれる幕府や藩の材木を切り出すための管理地があり、木の種類や本数、大きさをつぶさに記録し、厳重に管理されていました。
延宝2年(1674)の記録では、250万坪の敷地に、約1万本の樹木が管理され、その樹種は杉だけでなく、松、樫、コナラ、樅などがあったことが記されています。
天保3年(1832)、浜御殿奉行の木村喜重が御林の樟の視察のために河内を訪れています。木村はその時の道中日記と河内、禅長寺、大滝などの画を残していますが、日記には河内で蜜柑が栽培されていることが記されており、江戸時代からみかん(当時は紀州みかん)が河内の特産品だったことがうかがわれます。
また、仲屋には「江戸時代に高貴な人が泊まった」言い伝えがあり、木村も仲屋に滞在したかもしれません。
河内の天王祭りでは、神楽が奉納されますが、いわれとして、天保末年に内浦地区三津の大川家から嫁を迎えたご縁で三津の神楽が譲られたという話が伝えられています。
天王祭りでは、海瀬家のおくざしきに神輿を置き、中座敷でお囃子、神楽の舞いが行われます。